第68話    「松涛公獲魚拓巻」   平成17年07月24日  

鶴岡は致道博物館の御隠殿入り口から少し奥へと入った所に釣関係の品々の展示がなされている。左手に丹羽庄衛門、上林義勝、平野勘兵衛、秋保親友、松濤公御愛用の無名の竿等の名竿を中心に矯め木などの釣具が展示ある。そして左手には松濤公獲魚拓巻を中心に兄忠篤公の二尺七寸五分の真鯛の魚拓や土屋鴎外の鳥羽絵風の絵等が整然と展示されている。

松濤公(14代酒井忠宝)の御愛用の無名の竿が、左手の竿棚の中に上林義勝のカヤ風呂や竿師丹羽庄衛門から貰ったという家老菅実秀愛用の臥牛等と一緒に、一際目立つ形で展示されている。昨年9月この三本すべてを手にとって振る機会を得た。日頃軽いカーボン竿を振っている人間にとって、これら庄内竿の4間(7.2m)からの長竿を振って見るとその見事さと同時に重さには吃驚する。これを昔の釣り人は一日、一晩振っていたのかと思うと尊敬の念を抱かずにはいられない。かつて自分が使っていた竿はすべて小遣いをコツコツと貯めて買っていた安竿であったから最高でも3間(5.4m)に満たぬ竿である。大型の魚を狙う玄人の釣師の竿から見れば、なんともみすぼらしい間の抜けた貧弱な竿であったではなかろうか。これらの長竿を振って見て感じたことは、これが同じ庄内竿なのかと思うほどに素晴らしい出来栄えである。こんな重くて長い竿を自由に扱うことの出来る釣師は、庄内でもそんなに多くはいなかったであろうと確信出来る。何よりも驚いたことは名竿中の名竿と云われた上林義勝の四間一尺のカヤ風呂や四間三寸五分の丹羽庄衛門の臥牛竿よりも、作者不明の松濤公の御愛用の作者不明の竿がより使い勝手が良いように感じられた事である。そんな事を感じたのは自分だけでなく、加茂の館長村上氏等数名もそのような意見を云っておられた。竿の調子に個人的な好き好きもあるのかも知れぬが、より実践向きの名竿であることは確かである。当時二十代後半と思うが、そんな若さの松濤公の竿を見る目の確かさには感嘆せざるを得ない。ただの高貴な方の釣好きではないと肌でひしひしと感じた。

酒井忠宝公は酒井家11代忠発(ただあき)の五男として鶴ヶ岡城内にて生まれている。その後幕末の動乱の中で数奇な運命の巡り合わせは、通常では絶対に殿様になれぬ部屋住みの位置に居た彼を14代の殿様にしてしまう。父11代忠発は文久元年(1861)病気を理由に隠居し、江戸に居た長子忠寛(ただとも)12代を継承するも翌2年に領国庄内に下向するも9月にはしかを患い急死してしまう。その為同年124男の忠篤(ただずみ)が若干15歳で13代を継ぐこととなる。翌年文久3(1863)幕府より江戸市中見回り役を命ぜられ新徴組を組織した。慶応3(1867)江戸市中の討幕運動の取締りの中で、庄内藩士の江戸薩摩屋敷焼き事件が起きた。その為に薩摩藩士の若手の中にこの事件を恨み思い、慶応4=明治元年(1868)勃発した戊辰戦争の庄内攻め強硬論が起きている。朝廷より庄内藩にも幕府追討の命が下るも、翌年奥羽列藩同盟を組織しその中心メンバーの旧幕府譜代であったからこれを拒否し、ただひたすらに徳川家の存続を嘆願するもそれも叶わず賊軍の汚名の元、秋田、新庄藩に対し庄内藩追討の命が下り319日戦端が開かれている。

これに対し庄内藩はすべての戦いを領外で行い、官軍を相手に2323勝し苦しめたものの大局的には勝てる相手ではなかった。その為に裏面から西郷隆盛等に接触し政治工作を行って、それが成功同年9月には降伏開城し、かろうじて会津藩玉砕の二の舞にならずにすんだ。前線の薩摩の若手将校の反対もあったものの、西郷隆盛の大局的な政治判断で決着がついた。その事件以降庄内での西郷隆盛に対する尊敬の念はいまだに衰えることなく続いている。その後明治新政府内部の征韓論に敗れた西郷が薩摩に下って塾を開いた時に、旧藩主忠篤は76名の旧藩士を引き連れ、遠く薩摩に赴き教えを乞うている。更に西南戦争の時もその旧恩に報いる為、旧藩士、領民達が薩摩に向かった者多数とも伝えられている。

明治元年10月に忠篤は江戸に出頭を命ぜられ謹慎、同年12月に引退し五男忠宝(ただみち)14代を継ぐも、会津若松12万石への転封を命じられる。ついで翌明治2年には磐城平12万石転封と変更されている。領民共々この転封には大反対し、表裏両面からの政治工作を行った結果、70万両と云う新政府に対して多額の献金を行うことで話し合いがついた。滅茶苦茶な高額な金額の為、藩士、町民など領民が家財を売り払い30万両を工面し同年12月までに納めたが、後に残りの40万両は減額免除されたと云う。翌2年には藩籍奉還と同時に大泉藩と名前が変り、初代大泉知事に任命され4年まで勤める。明治5年の兄忠篤のドイツ留学に続き、忠宝も6年にドイツに渡り法律学を学んでいる。12年に帰国、かつての家老で明治維新に活躍した元家老職の菅実秀の勧めで兄に家督を戻し25歳の若さで大宝寺松原に隠居している。

その後の忠宝は悠々自適の生活を送り、名を松濤と号し書や釣を楽しんだと伝えられている。ことに釣に関しては明治141013日の新潟県境の越後脇川村の夜釣りの釣果が魚拓となって酒井家に伝わり、松濤公獲魚拓巻となり致道博物館に常設展示がなされている。中でも代々の殿様が目標とした目の下三尺の真鯛とまでいかないが、それでも立派な二尺八寸五分の大真鯛等十数点の見事な成果が摺られている。磯釣の好きであつた祖父忠器(ただかた)や父忠発から多大な影響を受け、釣を趣味とした物と考えられる。若干12歳の若さで藩主とされ明治維新の動乱の中を駆け抜け、尚且つ25歳の若さで隠居することになった彼の人生を思う時、何を考えながら釣をしていたのかを想像することは自分には出来ない。ただ、ただ運命の悪戯と云うべきなのであろうか?運命に流され、翻弄された分隠居後の忠宝は、自分を見つめ直す如く好きな釣や書に没頭したであろう事は想像に難くない。